はてなブログお題スロットより。 ~結の卒業式の過ごし方~

今週のはてなブログお題スロットの今週のお題は、「卒業」。そうか。もうそんな時期なんだな と思いつつ、今日は結の卒業式の思い出のあれやこれやを綴っていこうと思います。

 

『卒業式』。まぁ入学式なんかもそうなんですが、まずみなさんにお聞きしたいのはこの言葉を聞いてどんなイメージを持ちますか?
私は、とにかく長い。ヒマ っていうとニュアンスがちょっと違うのだけれど、じっとしているのが窮屈で、退屈で、億劫(おっくう)で仕方がない。

さすがに今はそんなことを感じなくなりましたが、式ものは小学校・中学校。早い人だと幼稚園のときから経験するのかもしれません。加えて小学校高学年くらいになってくると、いろいろと多感でエネルギーにも満ち溢れ、”衝動”みたいなものに突き動かされるような感じでじっとしていられない。
じっとしていなければならないと分かっていても、じっとしていられない。 こんな経験、分かっていただけると思います。

加えて、年頃なので人が話している言葉の意味は分かるし、「この言葉がきたら締めに入ったな~」というのも分かるんだけど、大人向け(保護者とか周りの来賓とか)に向けた言葉って、なんかわかるような?わからないような? 内容が飛び飛びに脳内で整理されて聞こえてくるから、聞いているのが余計につらい。

当時の私は、まぁ、中学生ぐらいになれば退屈 とは思わなくなるんだろうなと軽く思っていましたが、なかなかおさまらず。そこで私は、ただ聞く のを止め、式辞とか祝辞の中に楽しみを持ちながら聞く ことにしたのです。どういうことかというと…

 

 

その1.季節のあいさつ文を聞き逃すな

まず、冒頭の季節のあいさつ。例えば、少し前から咲き始めた桜も満開になり、時折響くウグイスのさえずりは、あなたたちの卒業を祝っているかのようです。 みたいなやつ。  ←完全に即興。今執筆中に、ウグイス鳴いてたのでそれでパパっと作成。
このように長い文の人もいれば、”桜のつぼみも開き始めた今日この頃。卒業生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。  みたいに一行足らずで終わる短めの人もいる。
まちまちです。あ、この人長めだな。約3行。 こんな短くても成り立つんだ。来年送辞(答辞)の時に使えそう…。とかね。これだけでも妄想は膨らみます。メモとかできないから、より真剣に聞こうとするわけです。

あいさつ文が終わると、卒業生に向けたメッセージが読まれます。自分がその年在校生であったとしても、そう年が離れているわけではないので、ここは身近に分かりやすい(共感しやすい)言葉として脳内変換されるはず。
となると次は、「本日を迎えるに当たりまして、その保護者のみなさまにもお祝い申し上げます」なんていうフレーズから、もう一山長々と気難しい話が始まるわけです。

まぁ、これ言うのは大体学校長式辞、来賓の1,2人目と、都道府県知事の代読の大体一回の式で3,4例ぐらい。
あとは、”時間の都合上で”省かれます。  省かれます なんていうと申し訳ないのですが、子どもの目線に立つと、長く気難しいのは地獄。もう一山を私はどのように聞いていたか。  そこで、

 

その2.前で話しているのは自分だと思い込め

自分は椅子に座って聞いているんですが、前で話しているのはあの人ではなく自分だ。と言い聞かせるのです。
十分にそれができたら、「前からだと大勢の人が見渡せるなぁ。ん?大人も眠そうな顔してる人がいるぞ」とかいうふうに、前から見える景色を想像して、自分だったらその景色を見てどんな風に思うか・考えるか。思いを巡らせるわけです。

当時の私の場合だと、それに加えて「あの人は○○中学校の校長だから、これが終わったら自分の中学校に戻って、そのあと机の中を掃除して。離任・新任の先生に向けての準備して。明後日には○○小学校の卒業式もあるから、また行かなくちゃな。じぶんところは教頭に任せれるだけ任せておいて…みたいなことちらつきながら読んでいるんだろうな」と静かに妄想する。

 

これがPTA会長の場合、誰かの親なわけだから、多分、家の中で「文章考えるの、慣れない~」、「季節のあいさつ、難しい。ネットで調べて~」って言いながら、しれっと読んでいるけど裏ではだいぶ苦労したんだろうな。とか、

 

都道府県知事代読の場合だと、自分の名前の書かれた木の札のある机で、あの紙とペンを持って文章作りに悩みながら、たまに顔上げて窓の外を見ながら「う~ん。今自分はこの子たちのメッセージを書いているわけだけど、文章は毎年のことだからいいとして、彼らに会ったことがないぞ。一応、『文化祭や体育祭で絆を育まれたことと思います。みなさんにとってかけがえのない思い出となったでしょう』。ってありふれたこと書いたけれど、実際はどんな様子だったんだろう?と思いながら、代読の秘書か誰かに、ん、じゃよろしく。って言って託したんだろうな。  という感じ。

 

このように、その人の置かれている立場ごとに拙いながら妄想をしたり、自分が前の人だったら、今日までどんな日常を過ごしたとか。色々考えていると案外、時間は矢のように過ぎていきます。

 

で、その日参列していただいた方の名前を紹介し、ここまできたら「お別れの歌」歌って終わり。ぐらいの短いスパンでしたから、いろんな意味で、ホッと一息。やれやれ。というかんじでしたかね。

 

今回のお題が「卒業」とのことだったので、私がその当時卒業式の時、どんなことを考え、一種の”やり過ごし”をしていたか。をお話してきました。結も20代に突入し、しばらく経っていますので、この記事を何年ぶりか。当時の思考を懐かしみながら書いていました。
では、今回はこの辺で。                        結

 

 

 

 

P・S

一部例外として、私が卒業の年に当時の校長が送ってくれた言葉というのが、確かニーチェ のもので、(引用先と内容ははっきりと覚えていませんが、ざっくりと、夢を見て、それを諦めず、実現に向けて努力していれば、いつか報われる時が来る。逆に見続けなければ=目標を持ち続けなければ、前に進むことはできない。というものでした。誰か分かる人がいればコメント等で教えて下さい。

 

それを聞いた当時の私は、ポケモンでいうタツベイボーマンダ(空を飛びたいと夢見続け、タツベイのころからその努力を惜しまず、願い続けた結果、ボーマンダに進化した時に羽が生え、空を飛べるようになった)の図鑑説明文のようだな。と思ったのを覚えており、心理学に興味を持っていたのもあってか、今でもニーチェのこの言葉とパスカルの「人間は考える葦である」というのは頭から離れたことがありません。

私はこの年の”学校長式辞”は他のどの年よりも真剣に聞いていましたし、今でもあの場で贈っていただいたことばは、今でも何よりの宝物である ということをここに記しておきたいと思います。