漢字雑談『魅』

今日は『魅』という漢字について。
魅惑・魅了といった言葉で使われる『魅』です。
私がこの字を見て思い浮かぶイメージは、「自分にはないものを持っていて、(その人に対し)憧れや羨望を抱く対象となる人、あるいはもの」という印象。
なので成り立ちも+のイメージなのかなぁ…と思いきや調べてみてびっくり!なんと
「グロテスクな頭部を持つ人(鬼の部分)と木に若い枝がのびた様から若い・小さい、はっきりしないなどの意味を示す(未の部分)で出来ていて、はっきりしない が転じて、はっきり見えることのできないもののけ(死霊)や木の命のもとになる力から出る霊(木魂=こだま)など『霊』の意味を持っているのです。
そのほかの意味としては、見いる、心をひきつけて迷わせる  などもあります。

 ところで話は変わりますが、人間、生きていると物事が上手く行かずに腹が立ったりもどかしい思いをしてばかり。そういう時私は「なんで自分はこうも上手くできないんだ、何で自分だけ…。」とかなり落ち込みます。世の中が自分に敵対して、自分が行おうとしていることを真向から潰すために、強大な力を使って無理やりねじ伏せ、上手くいかない方向にばかり誘導しているのではないか?
このように考え出すと堂々巡りで、悪いようにしか物事を考えなくなります。
もう自分は生きていても無価値の人間ではないのか と何度思ったことか…

 

しかし、人間ってよく出来ているというか、おバカというか。
そんな状況でも何か自分の好きなことに時間を費やし没頭したり、とても嬉しい出来事があったり、人と話をして、何でもないことで笑ったり
本当にキッカケは何でもいいんですが、こういうことが一つでもある(起こる)と
「もう一回がんばってみようかな。とか、生きててよかった」と思えるんです。
不思議なもので。

 

あるとき私は、とある人からこんな事を言われました。
「人生は、思い通りにいかなかったり、苦しみや辛さ そういったものが9割。
残りの1割が楽しかったり嬉しかったり、良かったなぁと心から思えること。そういうもんです」。

私はなるほどなぁ と感心しました。
生きるということは、神様が私たち1人1人に与えた試練。その試練の中でその人らしさ(個性)を芽生えさせ、私たちは豊かな人生を送っていく。
「神様は乗り越えられる試練しか私たちに与えない」とはよく聞きますが、辛く苦しいものでなければそれは、試練ではない。その試練を途中で投げ出さないために神はアメとムチを使い分ける…これが本当の「賽は投げられた」というやつでしょうか。

しかし、それにしてもたった1割の「アメ」で調子を上げる私たちも何と滑稽な。