仮面ライダー ~My Dark Side Story~

私が、仮面ライダー作品を愛していることは、前回にも書きました。
私がなぜ、同作品にハマり出したのか?それも前回に書きました。 その構成上、前回の記事をまだ読まれていない方は、先にそちらを読まれてから、今日の記事に来られることをお勧めします。

 

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 さて、前回の記事も貼り付けたところで。昨日語りきれなかった、私が仮面ライダーを好きな理由というか、仮面ライダーを見るにあたって心がけていること を紹介しようと思います。それは、『悪役がいてこそのヒーローなので、悪役の立場(視点)から物事を観る』この考えを幹として、毎週楽しみに見させてもらっています。
なんだかよく分からない、知ったかぶりのえらそうなことを言っているようなかんじですが、かくいう私も、6、7年ほど前まではそこまで気難しい考えはなく、ただ単に
『最後にはどうせ散るんだから、悪役側も応援してあげないと(味方がいないと)かわいそうだなぁ』と。ただそれだけの思いで、怪人や組織の幹部の人間側に立って、時折いち視聴者としての感覚も織り交ぜながら見ていた。だけだったんです。

 

ところが、そのようにして見始めた最初の作品「ウィザード」の終盤。見ていた方なら分かっていただけるかと思うのですが、中山絵梨奈さん演じる「ファントム」の幹部
”メドゥーサ”を池田成志さん演じる”ワイズマン”こと笛木奏が「用済みだ」と言い、貫いたシーン辺りから、あろうことか(?)彼女に感情移入してウルッときてしまいまして。
その時の私の心中はというと、不思議でしたよ。ウルッときながらも、今まであれほど非道・卑劣な行いをしてきたメドゥーサに、「出来ることなら救ってやりたい」という気持ちが芽生え、その怒りの矛先が笛木に向かっているのを感じたんです。

こんなこともあるんだ…いや、あっていいんだ…の方が正しいかもしれません。その当時の私は、ウィザードが終わって次の「仮面ライダー鎧武」が始まってもしばらく、フワフワとした、まるで行先もなく、自分がどこにいるのかも分からず、ただただ漂流している無力な”もの”の如き心情で、「心ここに在らず」という感じでした。

それから約1年後。「鎧武」終盤でもこの感情に襲われることになろうとは、このときはまだ露知らず…。

というのも、鎧武の時は最初からこういう見方をしていましたので、しょうがないといえばしょうがないのですが、後に『新世代ライダー』と呼ばれるようになる「ゲネシスドライバー」を使って戦う「ユグドラシル」の面々。同じ会社で概ね同じ目的のために動いているはずなのに、細かいところ というか、4人とも「『仮面ライダー』という力を手に入れて成し遂げようとする目的の、最終到達点」が微妙に違うんですよね。その微妙なズレが、最初は鍔迫り合い程度だったものが、深刻になっているとみんな気づかないから最後は結局、命の『採り合い』に悪い意味でグレードアップしてしまう。
元より「力」を自分の欲のために使おうとしている連中はともかく、「彼らは俺のことをよく理解してくれている仲間だ」(貴虎)「何かが違うと薄々感じながらも、自分を強く持てなかったがために、結果として自分を疎かにし、終始他人のために尽くす生涯を送った」(耀子)この2人は、過去の境遇が境遇なだけに見ていて苦しかった…。
結果的に主人公側(視聴者の多く)には悪く映っても、一概にそうは言いきれない という。こういう「悪」の描き方もあるんですね。

まだまだ語ろうとする気力はあるんですが、文章的にも体力的にもこの辺にしておいて。
こうして、私の「悪役と共にある仮面ライダー人生」が始まったわけです。

最後に、もうちょっとだけ悪役の良いポイントを挙げて締めるとしましょう。
悪役サイドの人物って、当たり前だと思われるかもしれませんが、登場シーンが少ないんです。1話、30分の中に1、2シーン。時間にして5分あるかないかぐらい。
そんな役回りだから、彼らの会話とか表情とかを細かく・逃さず追っていると、知らず知らずのうちに(これは何も仮面ライダー作品に限らず。ですが)ドラマの核心を見ることができる かもしれないんです。
なぜって、彼らの会話が短い→要点(重要)なことを話す=ドラマの核心テーマにつながる という図式になるから。
おおげさに言うと、『悪役=人生を生きるためのヒントの宝庫』だと、私は思います。

 

これを読んで、「仮面ライダーに興味を持った」とか、「見方が変わった」などと言う方が出てくればいいなぁ と思いつつ…。